日頃忘れている世界を思い出させる詩 孔雀のパイ
 昨年のちょうど今ごろ、「くんちゃんのはじめてのがっこう」や「もりのなか」の翻訳でおなじみの間崎るりこさんがY町での講演のためおいでになりました。運悪く風邪で高熱を出し寝こんでいる私の枕もとに、ニ男が録音テープを持って来て、「聞け!聞け!」と言うので、がんがんする頭を抱えながら、テープのスイッチを押しました。

 講演の冒頭で、ウィリアーム・ワーズワースの「わがいもうとに」という詩を暗唱なさいました。息子たちが空港から阿蘇のふもとを通り、吉無田高原を越えてY町までお送りする途中の景色を眺めながら、「思わず口をついて出そうになったのだけれども、気がふれたと思われたらいけないので我慢しました」とおっしゃったその詩は、「三月のはじめのおだやかな日、一刻は一刻より心地よく、」とはじまり、「書物を持つのは止めににして、今日一日を、のんびり暮そう。」で終わります。

 本屋にしてみればちょっとゆゆしき(?)詩なのですが、早春のすばらしい自然の中に身を置くと、世事に縛られていた心が解き放たれ、失ってしまったものが蘇える気持ちがみごとに伝わってくるすばらしい詩でした。

 実はそこまではまだ驚かなかったのですが、講演の終わりに質問の時間があって「子どもがザワザワとして落ち着かない時どうしたらいいでしょうか?」という質問に、ちょっとためらわれた後「私はそんな時、詩を読んだりします」とおっしゃって、ご自分で訳されたウォルター・デ・ラ・メアの『孔雀のパイ』のなかから、「だれか」という詩を暗唱なさいました。

 そして、「まさか、詩なぞを読んで静かになるものか」と思った私の考えがみごとに覆えされました。実はこの『孔雀のパイ』という詩集も「だれか」という詩も『子どもと本』という季刊誌にとりあげてあって、気になりながら読み過ごしていたものです。けれどもこの詩を耳から聞いたとたん、決してオーバーでなく体の内から何か熱い衝撃のようなものがつきあげてきて風邪さえすっとんでしまうような気がしました。

 日常のできごとのほんの一部を切り取ったようなこの詩が、日頃忘れてしまっている、あるいは気がつかなかった奥深い世界を気づかせてくれるものだということ、言いかえれば、長編にもまさるとも劣らないものだということを実感させてくれたのです。

 ウォルター・デ・ラ・メア同様、優れた作家であり詩人でもあるエリナー・ファージョンの作品に『詩』という題の詩があります。「詩って何? わかる? バラでなくて、その香り。空でなくて、その光り。虫でなくてその動き。海でなくてその響き。私でなくてこの身に 見せて 聞かせて 感じさせてくれるもの。普通の文章では表せないもの。そんなものだってこと、わかる?」 このような世界を体験させてくれるような優れた詩を、子どもたちにも感性の鋭いうちに、耳から聞く機会を作ってあげたい、と思った貴重な体験でした。

(執筆 小宮楠緒 2000年2月)