まぼろしの「たのしい川べ」
 幼いころの鮮明な記憶と言えば、小川で水を飲もうとして、かがみこんだとたん頭から落ちて、危うく溺れそうになったことです。多分、3歳か4歳の頃だったと思うのですが、その恐怖感のおかげで、水の冷たさとその小川の様子を今でもありありと思い出します。

 とても深くて、もがいてももがいても、水から出ることができなかったように思っていたのですが、大人になって行ってみると幅40センチほどの小川でした。ちょっとした段差があり、流れ落ちるところが30センチほどの深さになっているところへ頭がはまり込んで、川幅が狭いために身動きができなかったのではないかと思います。

なつかしい川の思い出 
 私の生まれ育った家は今でも山の中にあって、すぐそばを谷川が流れています。溺れそうになったにもかかわらず、その谷川をさかのぼって一人で探検するのが好きでした。ちょっとした滝があるかと思うと、不気味なほど静まりかえったよどみがあり、木漏れ日でチラチラする水面に、サーッと魚影が走って岩陰に消えるのをゾクゾクしながら眺めたりしました。

 その谷川の音は、普段はザーッというにわか雨のような音で、はじめてお泊まりになった方は、「昨夜は随分降りましたね。」などと勘違いなさることがよくあります。ところが、一旦大雨が降ったりすると、とたんに水かさが増して、ゴーッという音に変わります。湧き水、田んぼの用水路、滝、よどみ、ゆったりと流れる大きな河、同じ川でも冬と夏で流れの音が違って聞こえたものです。

 あたりまえの事といえばあたりまえなのでしょうが、先日、「たのしい川べ」という、ケネス・グレーアムの作品を読み直して、川というものの不思議さと魅力をあらためて再確認しました。

 この作品は川ネズミ、モグラ、ヒキガエル、アナグマなどがこのような川辺を舞台に繰り広げるなんともたのしいお話ですが、川を中心とした自然のこまやかな描写が目に浮かぶように描かれていて、子どものころどこかで眺めたり、感じたりした事が思い出されて、涙が出そうになります。

 残念なことに今ではごくあたりまえの川が、絶望的になくなりつつあります。ポコリ、プクリと流れる川のほとりで、草の匂いを嗅ぎながら、時を忘れて寝転ぶなどということは、とてもできない時代になりました。この本の原題は「The Wind in the Willows」(柳吹く風)。せめて、読んでいる時だけでも、川岸にそよぐ柳の下に手足を投げ出し、冷たい水の感触でも思い出しましょうか?
(執筆 小宮楠緒 2000年4月)