■ ■ ■ 少年T ■ ■ ■
■第17回 ああ、高校生だった

しばられ続けた中学時代に別れを告げ、僕は高校生になりました。進学先の高校は私立大学の付属高校です。ここは自由な校風で知られるところで僕も大いに期待して入学しました。

心強いのはなんと言ってもY君がいることです。同じクラスになれたらよかったのですが、彼は文系特別クラス、僕は文系一般クラスに分かれてしまいました。同じ高校といっても入学時の学力の差は歴然としていましたから仕方がないことでした。

僕のクラスは40人くらいだったと思います。私立ですから学区がないので、郡部に住むクラスメートや寮に住むクラスメートもいました。クラスの第一印象は暗く感じました。まあ、僕と違って、第一志望の公立高校に落ちて入学してくる人が大半なので、入学当初は暗くて当たり前なのかも知れません。それよりも誤算だったのが、男女の比率が7:3だったことです。僕のクラスには9人しか女子がいないのです。よけい暗く感じました。

クラスが違ってもY君とは毎日一緒に通学しました。自転車で通学できるのはとても新鮮でした。
入学して2日目。Y君と一緒に駐輪所に自転車をとめていると2年生の女子の先輩が3人近づいてきました。
「君たち、もう部活決めた?」突然に声をかけられ、ドギマギしていると「まだ、決めてないなら弓道部に入らん?毎日屋上で練習してるから見学においでよ」と誘われたのです。

おいおいおいおい、ちょっといい感じじゃないか!Y君は僕をみつめ「明日、屋上に行ってみよう」と興奮気味です。前日、大学の学食に行った時、キャンパス内で女子大生からウィンクされて、入学してよかったと喜びあった馬鹿二人に連日の先制パンチです。

ところが屋上への行き方がいまいちよくわからず、弓道部の練習を見学にいったのはそれから2週間くらいたってからです。

僕の高校の弓道場はなんと屋上にあるのです。夏は暑く冬は寒いですが、眺めはよくて気持ちがいいので、悪い環境とは思いませんでした。
体育会系のノリはあまりなくて、先輩後輩男子も女子もわきあいあいとしていましたのでとても好感が持てました。もうすでに1年生も何人か入部していましたし、僕は誘ってくれた2年生の女子の先輩が気になって気になって仕方がなかったので、Y君とその場で入部を決めました。

そしてその後、僕の親友となる同級生たちが次々に入部してきたのです。


■第16回 よしまっち

息苦しい中学生活でしたが、悪いことばかりじゃありませんでした。2・3年生の時のクラスは個性的な子が多くて楽しかったし、500人の同級生がいるマンモス校でしたから、いろんな刺激があったのも確かです。

多くの中学生がそうだろうと思いますが、僕も音楽とファッションは友人たちからかなり影響を受けました。

音楽は中学になってはじめて洋楽を聴きました。最初に聴いたのは「ワム」でしたね。マドンナやクイーン、カルチャークラブ、トンプソンツインズなどなど。歌詞カードを見ながら口まねしたりして、洋楽を聴いてる自分が大人になった気がしました。

ファッションはリーバイス501とヘインズを最初に知ってから、完全にメイド・イン・USAにはまりました。洋服はアメリカ製が一番と皆で話し、中学生のくせにアメカジショップのオヤジたちと洋服談議に花をさかせる生意気なガキでした。当時は「ビームス」とかショップ名が入ったビニール袋を水着バッグにするのが流行ってました。ショップにしてみれば勝手に宣伝してくれるんですから笑っちゃうでしょうね。

本は中学時代が一番読まなかったと思います。確か、漱石を二つか三つ、あとは母にクマのプーさんを読み聞かせてもらってゲラゲラ笑っていたぐらいだったと思います。

いろんな趣味を持った同級生たちと出会い、小学生の時は「友人と遊ぶ」ということが一番楽しかったのに、「友人と語る」ってことがすごく楽しいと思えたことを覚えています。

中学2年生の時、僕はY君と出会いました。当時は僕と同じく小柄な男の子で、家が近所だったこともあってすぐに仲良くなりました。おかしな事を言って人を笑わせたりするユーモアのあるヤツでしたが、勉強もとても良くできました。

毎朝、一緒に登校し、塾にも行ってました。ただ悲しいかな学力はついていけなかったのです。一度、彼の部屋に遊びにいって驚きました。壁には「○○高校、絶対合格!」と書かれた紙が貼ってあり、各教科別の勉強ノートがずらりとならんでいました。学校とは違う一面を目の当たりにし、ここまで努力しているから、いい成績なんだなと自分が恥ずかしかったです。

僕は、高校受験を私立の推薦試験で早々と終えてしまったので、卒業まではのんびりしていました。しかしY君は最後まで頑張って勉強していました。僕は彼の志望校合格は間違いないと思っていました。熊本の場合、公立高校の合格発表は中学の卒業式の後にあります。ですから、彼の合否は僕にはわかりません。

公立高校合格発表の日、Y君はわざわざ僕を訪ねてきました。いつものニコニコ顔です。「どうだった?」と聞くと「春から、一緒の高校になったよ。よろしくね」と笑って言うのです。なんと彼は志望校に落ち、すべり止めで受けた僕の進学先の私立に行くことになってしまったのでした。

本当は慰めなくてはならないところなのですが、彼は満面の笑みですし、僕は正直うれしかったので、「じゃ、また3年間一緒に登校しようか」と言って二人でゲラゲラ笑いました。

以来、彼とはきってもきれない仲になりました。高校時代は彼抜きでは考えられません。親友ですね。


■第15回 中学生活

中学生になりました。
僕の学生生活の中では、中学時代が一番つまらなかったです。
いまだに「中学校」とか「中学生」という言葉に抱くイメージも悲しいかな良いものではありません。

僕の入学した中学校は4つの小学校区から生徒が集まります。一学年で12クラス、500人以上の生徒が同級生です。
あまりに数が多過ぎて、自分というものを学校で発揮することができない息苦しさがありました。

そして、小学校では感じなかった「暴力」というものが学校の中を支配していて、何か気が抜けない感じが常にありました。

担任の先生は頭の薄い年配の男の先生でした。今まで男の先生が担任という経験がなかったので、最初は戸惑いました。さらに中学になると教科ごとに先生が変わります。しかし、全く誰一人として好感の持てる先生はいませんでした。

生徒が何か悪さをすると、先生はとにかくすぐに殴りました。体罰を見ない日はありませんでした。

驚くべき先生がたくさんいました。

終了のチャイムが鳴ったので、筆記具を筆箱にしまったんです。そしたら「おい、お前!俺はまだ授業を終えてない!」と言って、僕を教壇まで呼んで、いきなり殴るんです。そして「はい、今日の授業はこれまで」だって!

あと、技術の先生で定期試験の点数が50点満点中25点以下の生徒は必ず殴るという先生もいました。「はい、25点以下は並べ!」と言って、次々に殴っていくのです。

他にも、「先生の名前の漢字は何て読むのですか?」と尋ねても絶対に教えない担任。
校則よりモミアゲが短いからと言って、黒マジックでモミアゲを書き足す生徒指導。

一番バカバカしいと思ったのは音楽の授業。60分だか90分のカセットテープにクラシック音楽の一部分だけ、いわゆるサビの部分を100曲くらい録音したものを配るんです。(もちろんテープは生徒の自己負担ですよ)生徒はそれを必死に覚えるんです。それで試験があるわけですよ。クラシック音楽のイントロクイズみたいなもんです。
理由は「大人になれば、たしなみとしてクラシック音楽は必要だから」ですって!大きなお世話だっての!大体、楽曲の一部分だけ知ってて何の役に立つっていうんでしょうか?一部分だけ知って、大人になって、100曲全部知ってる顔して生きていけってことなんですかね?

そいうや、最近はやりの「名著のあらすじ本」、あれも教師が書いてますね。確か元校長先生ですよ。なんだかなぁって思うのは僕だけでしょうか?

学校全体で1500人を超える中学生を面倒見るのは、先生方にとっては大変だったと思います。勢い、力でねじ伏せなければならない場面もあったでしょう。しかし当時の母校には、先生と生徒の信頼関係があまりにも希薄だったように思います。

数年前、仕事である中学校に行ったとき、そこに当時教わった先生がいらっしゃいました。先生は僕のことを覚えておられませんでしたが、在校当時の話をしたところ、「ああ、あの当時の教師陣は本当に悪かった。君達は運がなかったねぇ」と慰められました。

運かぁ・・・。運であの中学3年間。なんか切ないです。



■第14回 卒業

振り返ってみれば、小学校の卒業式が一番感動しました。
高校・大学の式なんて出なくても良かったって思うくらい。

転校して3年しか通わなかった学び舎ですが、僕にとっては実に激動の3年間でした。話し言葉はすっかり熊本弁になり、高校野球も西東京代表よりも熊本代表を応援していたと思います。

卒業式の練習はやたら時間をつかってやったように思います。ま、当時は週休は1日だったし、学校行事にも余裕があったのかもしれません。

その大部分は歌の練習です。卒業生・先生・在校生(2年生・5年生)がかけあいのように歌うすっごく長い楽曲です。

いつか出入りの学校の先生に「卒業式のあの長い歌って今でも歌うんですか?」とたずねたところ「え〜っ、時代遅れで歌いませんよぉ」と言われました。
しかし、今年ある小学校に納品に行ったところ、なつかしいあのメロディーが流れているじゃありませんか。一気に記憶がよみがえりました。

卒業式間際の合同練習。もうすでに泣いている感激屋の女の子もいましたが、僕は意外とさめた感じでいました。
何度も同じ歌をうたわされてうんざりしていたし、僕のクラスは合唱の低音がパートだったので、うまく声が出ないんです。いつの間にか高音をうたってたりするんですよね。それで音楽専科の先生に「3組の低音はもっと大きな声でうたいなさい!」とか言われると、あーあ、早く終わんねぇかなぁって思ってました。

まず2年生が「な〜かよく遊んでくださったぁ、6年生のお兄さん〜♪」とうたいだすのですが、何回も繰り返しうたってると「お前たちと遊んだことなんてないよ」なんて心の中で毒づいたりしてました。

さてさて、いよいよ卒業式の当日です。担任の先生はきれいにお化粧をして、袴姿でやってきました。今思うと、大学を卒業したばかりの娘さんが教師になり、40人の子どもをまとめるのは大変だったと思います。
「なんで先生の言うことがきけないの!」と教室で突然泣き出したときは、僕ら生徒のほうがオロオロしました。
その先生が、震える声で生徒一人一人の名前を読み上げます。自分の名前が呼ばれた時、胸が熱くなったのをおぼえています。

さあ、最後はあの長い歌をうたっておしまいです。練習でいやというほど聴いた伴奏が流れます。その瞬間鳥肌がゾゾーっとたちました。完全に感激モードになってます。2年生が歌います「な〜かよく遊んでくださったぁ、6年生のお兄さん〜♪」
心の中でうなずきます。うんうん遊んだ遊んだ・・・っておい!遊んだ気になってるよ当時の俺!!

ああっ!先生もう号泣してる!先生大丈夫かな?ああっ!Kさんが泣いてる。僕、Kさんのこと好きかもしれん・・・。訳がわかりません。

泣いて化粧のとれた先生を先頭に、僕らは体育館から教室に戻りました。すっかり笑顔に戻った先生。卒業記念としてクラス全員それぞれに選んだ本をプレゼントしてくれました。今、くやしいのはその本が行方不明になっていることです。せめてタイトルだけでも思い出したいのですが。

卒業記念にタイムカプセルも埋めました。成人式に開ける予定です。・・・、もう32歳になってます。約束の日は守らなきゃ!チャーリー永谷に怒られるぞ。
仕事で母校に行くことになり、事務の先生に「あの給食室の脇に埋めてあるタイムカプセルは僕らのです」と言ったところ「邪魔だから、早く掘り起こせ」と言われました。

昭和59年熊本市立出水小学校卒業の皆さん。僕らのタイムカプセルは母校で邪魔になっています。なおかつ、6年3組はAくんの入れたサッカーシューズにより内部が心配な状態です。早く掘り起こしましょう。




■第13回 構造改革

小学校高学年のクラスはつらかった。何がつらいって女の子としゃべれないんです。クラスが自民党のように「○○君派」というような派閥に分かれていて、最大派閥の男女の長がその交流を断ち切ってしまったのです。小泉首相もビックリの世界です。

男女が机を並べる場合でも微妙に隙間をあけたり、「女の子が映るから」という理由で鏡を黒く塗り潰したり。田嶋先生もビックリの世界です。

僕は女の子が好きです。幼なじみやいとこの女の子達とままごとをするのが大好きだったし、クラスに女の子が転入してくると、おぶって校内を案内して、担任の先生を慌てさせたりしました。そんな僕が女の子としゃべれないなんて!ちなみに、女の子としゃべると男子全員が完全無視するという制裁がありました。

当時担任は新卒の先生でした。そんなクラスの状態を憂えてはいたものの、なかなか具体的な対策はなされませんでした。

ある日、決定的なことが僕に起こりました。運動会の応援団の団員決めが学級会で行われました。応援団といえば運動会の花形。僕もやりたいと思いましたが、そういう役目はクラスのリーダー的な人とその取り巻きの人で構成されるのが世の常です。次々に立候補の名乗りをあげ、一応は満場一致のかたちで了承されます。って、本当にこれは自民党みたいな世界だな…。

しかし、最後の一人が決まりません。だれも遠慮してか立候補しないのです。ま、「肥後のいっちょ残し」ってヤツでしょうか?

それならばと思い、思い切って手をあげました。「僕、やります!」それとほぼ同時にHくんも手をあげていました。Hくんは僕よりも運動神経がよく、最大派閥の長に寵愛されている人物です。「ダメだ…」僕は思いました。

先生が「それでは、投票で決めましょう」と提案しました。嫌なことするなぁと思いましたが仕方ありません。ドキドキして開票を待ちました。

するとどうでしょう!何と僕の方の得票が多いのです。最大派閥の「N君派」を嫌う票と、ほとんどの女子の票が僕に流れたのです。って、おい自民党か?

その日はうれしくて、家にとんで帰って家族に報告しました。翌日、いつも通りに登校すると僕の机の周りが騒がしくなっています。声をかけるとサッと友人達は散ってしまいました。おかしいなと思いながら机を見てみると…。なんと彫刻刀で「女たらし!!」と彫ってあるのです。ええっ!驚きました。動揺で顔が引きつるのが分かります。涙が次々に溢れてきます。

さすがに先生も事の重大さからか、興奮して犯人を探し、このクラスの男女仲の悪さ等を注意して、僕たちに意識改革を求めました。

その後、児童主導の学級会が開かれ、男女間や同姓間でもいがみ合いはやめようという提案がなされました。すると1週間くらいして、最大派閥の男女の長同士が、実はお互いに好意を持っていて、グループ同士で江津湖に遊びに行き、楽しかったということを聞きました。なんだよ、それ!!って感じです、僕としては。

僕の学区は知事公舎や官舎があり、高級官僚の子どもたちも通っていました。書きながら思いますが、なんとなく政局と似た感じがあるのはそのせいでしょうか?考えすぎかな?

先日、女の子を無視することで有名だったI君が店に遊びに来ました。「僕のこと覚えてる?」そりゃ、覚えてるさ!君のせいで女の子としゃべれなかったんだから!「これ、妻と子どもなんだ」ふーん、なんだよ、それ!!結構カワイイじゃんか!!






■第12回 おいしいクラッカー

今にして思えば、その年のその日が気分・記録ともに最高だったのかも知れません。

その日は、僕がまったく意識することなくやってきたのです。ドキドキもソワソワもせずに普通に過していました。
1983年2月14日バレンタインデー。

ピンポーンと家の呼び鈴が鳴りました。母が玄関ドアを開ける音がします。
「Tちゃーん、お友達よ」
呼ばれて玄関まで行くと、そこにはクラスメートのMちゃんが立っていました。
「これ・・・」と言って差し出されたのは、まぎれもなくチョコレートです。
ええっ!自分でもどんな顔をしていいのかわかりません。彼女はチョコを手渡すとすぐに帰ってしまいました。

振り返ると、母がニヤニヤして見ています。「女の子にチョコもらったのはじめてじゃない?」
確かにそうです。今まで母にチョコをもらったことはありますが、まっとうなチョコレートをもらったのははじめてです。開けてみるとハート型のピーナッツ入りのチョコでした。

しばらくするとまた呼び鈴がなりました。今度は僕が玄関ドアを開けました。するとそこに立っていたのはHさん!彼女もクラスメートでしたが僕が好意を持っている女の子です。住いは線路向こうでかなりの距離を自転車できたようです。「これからも、仲良くしようね」と彼女は恥ずかしそうに言いました。僕はうまく言葉がでませんでしたが、心の中では「も、も、も、もちろんさ」とラップ調でこたえていました。

振り返るとやっぱり母がニヤニヤして見ています。「Hさんのこと好きなんだ?」「べ、べ、別にぃ」
開けてみるとハート型のピーナッツ入りのチョコレートでした。

ピンポーン、呼び鈴がなりました。うっそー!!3人目?
玄関ドアをあけると去年までクラスメートだった女の子でした。彼女はチョコを渡すと何も言わずに帰っていきました。
母は「Tちゃん、今日はすごいねぇ」と感心しています。僕も予想だにしなかった一日にドキドキしています。
開けてみるとハート型のピーナッツ入りのチョコレートでした。
すごくうれしいけど、みんな同じチョコレートだ・・・。包み紙も同じだし・・・。
まぁ、いいか。

その夜は、家族でバレンタインデーの話で盛り上がりました。ちょっといい気分でした。



1984年2月14日バレンタインデー。
その日は朝からソワソワしていました。いや、1週間くらい前からかなり意識していました。クラスの女の子の視線を敏感に察知していました。この1年でHさんとは放課後、二人きりで遊ぶ仲にまでなっていました。おい!うらやましいぞ、当時の俺!!

学校が終わると、さりげなくクラスを見回し、家路につきました。
家では母が、当時流行ったクラッカーにチーズをのせたおやつを数人分つくり待機していました。
そうです、今年はチョコを持ってきてくれた女の子を、玄関先ではなく家に招き入れ、お茶でもご馳走しようではないかと考えたのです。

「Tちゃん、今年は何人くるかな?」「うーん、わかんない」
つれない返事とはうらはらに、僕はかなり自信がありました。


「・・・・・。来ないね・・・」
「うん、来ないね・・・」
「これ、もう食べちゃおうか」
「うん、食べようか」
「チョコより、おいしいね・・・」

ねぇ、Hさん、これは一体どういうことだい?
神社での縄跳びの二人跳び。僕が入るのへたっぴだったから?
商店街での自転車の二人乗り。僕が後ろに乗ったから?
公園でのブランコ二人乗り。僕がいつも座ってたから?

ああ、クラッカーの塩味が今日の僕にはお似合いさ。

■第11回 へこむクリスマス

サンタクロースが意中のプレゼントと微妙に違うものを枕もとに置いていった年はちょっとブルーな気分でした。

僕と幼なじみのトミちゃんは、毎年同じような物をサンタにお願いしていました。前年、トランシーバーをプレゼントにリクエストしたものの、通話範囲が狭く、互いの地声が聞こえる範囲で通信した苦い経験を乗越え、その年はラジコンに決定しました。。
世はスーパーカーブームで、近所の年下の子が自慢気にラジコンを公園で走らせていたのを、憎々しく見ていた僕らはクリスマスを待ちに待っていました。

クリスマス当日、真っ先に見た枕もとには高島屋の包装紙に包まれたラジコンが置いてありました。しかも弟にも同じものが!!
箱を開けてみると、真っ赤な「ランボルギニーカウンタック」、ナイスチョイスだサンタさん!

早速、本体とプロポに電池を入れようとしたその時、あることに気づきました。このプロポにはボタンがひとつ付いてるだけだ・・・。

そうです、ラジコンを操縦する装置プロポには車を前後左右に動かすために二本のスティックが付いているのが普通です。
でも、僕のにはボタンがひとつです。これでどうやってバックとかターンをするんだろう・・・。

とりあえず動かしてみよう。スイッチを入れます。ウィーンとタイヤが回ります。僕の心も躍ります。そっと床に置くとカウンタックは真っ直ぐに走り出しました。前方に障害物です!プロポのボタンを押します。カウンタックは左に曲がります。よしっいいぞ!次は右だ!!プロポのボタンを押します。カウンタックは右に・・・いやっ左に曲がります。っておい左かよ!!

そうです。僕のスーパーカー、ランボルギニーカウンタックは左にしか曲がれない、中途半端なあんちくしょうだったのです・・・。いやっ、待てよ弟のはどうだ?弟のカウンタックは・・・、やっぱりサウスポーでした。

ラジコンがきたら、トミちゃんと弟と3人で公園にコースを作ってレースをする予定でした。これではコース作りにも支障が出ます。左へ左へ行くコースを設計せねば・・・。

でも気を取り直しトミちゃん宅へ出かけました。きっとトミちゃんも今ごろサンタからのラジコンで大喜びしているはずです。

トミちゃんのラジコン。それは真っ赤な「ランボルギニーカウンタック」
ええっ!一瞬、目を疑いましたが、トミちゃんのそれは僕のものよりも一回りほど小さいラジコンでした。
それでトミちゃん!プロポは?プロポ!!


ボタン、ひとつだね・・・。

それで、トミちゃんのは右利きなんだ。

コース設計なんて無駄です。追いかけっこすらできません。
たのむぜ、サンタさんよぉ。


■第10回 通知表

すっかり熊本弁にもなれ、遊びのルールの違いも理解できてきたのですが、なにか熊本の生活に窮屈な感じがしていました。

制服。これはとても嫌でした。東京では服装は自由でしたので、暑いときには薄着、寒いときには厚着と当たり前だったのですが、僕の転校先は冬でも制服の半ズボンです。なおかつ薄着を奨励していましたので、風邪でもないかぎりジャンパーの着用は許されませんでした。

運転免許。自転車に乗るには運転免許が必要でした。しかも4年生にならないと取得資格がありません。実技指導の日には自転車を押して登校し、講習を受け、ペーパー試験もありました。
弟は自転車に乗れるのに、1年生だったため、僕と遊びに行くときはいつも走ってついてきました。

ビンタ。なにか悪さをすると容赦なく平手打ちがとんできました。今はさすがにありませんが、当時は日常茶飯事。友人が先生からたたかれるを初めて見たときは、衝撃的でした。「ビンタ」という言葉も熊本で知りました。

憤懣やるかたない気持ちをどうにかして先生にぶつけたいと思っていました。その時ひらめいたのです。先生にも通信簿をつけてやろう!

ターゲットは熊本ではじめての担任の先生。おばちゃんですが僕は好きでした。ときに驚くほどヒステリックになり僕らをびびらせます。

厚紙を用意し、できるだけ本物の通知表のように作りました。問題は評価項目です。「厚化粧」は「5」、「ヒステリー」も「5」・・・。
この時点で僕の興味は完全に先生のあら探しにかわっていました。

終業式の日、先生が皆に通知表を手渡します。僕の名前が呼ばれたとき「先生にも通知表をあげます!」と大きな声で言いました。

先生はびっくりして通知表を受け取りました。僕は内心、かなりショックを受けて、もしかすると怒りだすかもしれないとドキドキしていました。

「うれしい!先生、生徒から通知表もらったのはじめて!皆見て、先生、厚化粧は5だってぇ〜」

・・・喜ぶのかよ!
予想していた結末にならず、がっかりでしたが、少しうれしくもありました。

「おう、少年、今度俺にも通知表作ってくれ!」
それからしばらく、たくさんの先生から声をかけられました。

担任のおばちゃん先生は隣町に住んでいて、今でもちょくちょく会います。
通知表はまだ大切に取ってあるそうです。


■第9回 コマっちゃう

お正月といえばコマ、そしてゲイラカイト。これが定番でした。最近の子どもたちにも、新しいタイプのベーゴマが流行しているとか。

僕はコマ回しが得意でした。ただ回すだけじゃなく、手のひらにひょいとのせて回したり、綱渡りさせたりも出来ました。

当時、熊本でもコマ回しは流行っていました。学校が終わるとトシちゃん派のH君が「今日、コマばするバイ!」と誘ってきました。おおっ、待っていました!! いよいよ熊本でのコマデビューの日がやってきたのです。

急いで家へ帰り、味付け海苔の空き缶に入ったお気に入りのコマたちを小脇に抱え、公園に向かいました。まだ誰も来ていません。ちょっと練習しておこうと思い、周りを見渡しましたが、やわらかい地面ばかりでコマ回しに適当な場所がありません。どこか別のところで回すのかなぁ?

そのうちH君がやって来ました。その手におかしな物が握られています。
「ねぇ、それなに?」
「はぁ?これはコマじゃにゃーや」
えっえー!それがコマ?驚きました、僕の持っているコマとはまったく違うものなのです。

まさか、まさか、コマだけは万国共通だと思っていたのに…。

どれも木を削りだしたボディに、赤・黄・黒等のラインで彩られた民芸品調のフォルムをしています。僕のコマのように、ウルトラマンの絵がかいてあったり、鉄の輪がはめこんであったりというようなものは一切ありません。そのくせ芯だけはマルとかナタとかやけにいっぱいあるのです。

しかも回そうにも紐の先端をひっかける芯が頭から出ていないのです。つまり紐の巻き方から違うわけです。

「なんや、お前のコマ。これじゃ遊べんバイ。俺のば貸してやるけん」
そういうとH君は地面にコマを回しました。
「ねぇ、柔らかい土の上で回したら、すぐに止まっちゃうよ。もっと長く回せる所でしようよ。」
「お前、なんば言いよっとや。コマは長く回さんでよか!相手のコマに自分のコマを打ち当てて、打ち割ればよかっだけん!」

うっそー?そんな遊び方なのぅ。それでナタの形をした芯があるわけね…。

次の日から僕はクラスで一番コマ回しが下手な男になっていました。ああ、九州男児への道は辛く険しい。


■第8回 サンタの正体

もうすぐクリスマスです。いくつになってもこの時期にワクワクするのは、幼い頃からクリスマスに楽しい思い出がたくさんあるからでしょう。

僕はサンタクロースの存在を小学3年生まで信じていました。クリスマスの朝には必ずプレゼントが枕もとに置いてありましたし、父がサンタクロースに電話をしているのも見ていたので、その存在を疑わなかったのです。

小学3年生の冬、2学期の終業式の最中、それぞれのクリスマスプレゼントについて友達とコソコソ話しているとS君が「今年はサンタがお願いと違うプレゼントを持ってきた」と言うのです。僕はそれはかわいそうにと思っていると、K君が「何、言ってるの?サンタはパパとママじゃん」と言い放ったのです。

ええー?パパとママがサンタ?
まさか、そんなはずはない。絶対に違う!だけど周りのみんなはS君にサンタは両親であると一生懸命に説明しています。S君はそれを聞いてびっくりしていましたが、何を隠そうこの僕もびっくりしていたのです。

走ってうちに帰りました。母にサンタクロースの存在を問いただしました。すると母は「ばれた?」と一言。体中の力が抜けました。

ショックでしたが、今までおかしいなと思っていたことのつじつまが合いました。プレゼントの包み紙がいつも高島屋のものだったことや、誕生日(12月23日です)にたくさんのプレゼントをおばあちゃんに買ってもらった年にはサンタが来なかったことなどです。

かわいそうだったのはすぐ下の弟です。僕のとばっちりを受けて、年長さんで現実を知ってしまったのです。ですから、一番下の弟には気を遣いました。彼にはなるべく長くサンタの存在を信じさせてあげようと苦労しました。

プレゼントには何が欲しいのか、さりげなくリサーチして両親からお金をもらいこっそりと買い物に行きました。もちろん包み紙にも気を配りましたよ。クリスマスソングで「そ〜の〜サンタは〜パパ〜♪」と流れて来ようものなら「パパ〜♪」の歌詞が聞こえないように大声で「アア〜♪」と歌ってごまかしました。今考えるとおかしいのですが、当時は真剣だったのです。

■第7回 天の神様

東京から熊本に越してきたわけですから、カルチャーショックは当然ありました。でも熊本弁はわりと平気でした。母が熊本の出身なので、祖父母やいとこはみんな熊本弁だったからです。

ただ、遊びのルールや呼び名が微妙に違うのには戸惑いました。
例えば「だるまさんがころんだ」これは皆さんご存知だと思います。鬼が「だ〜るまさんが・・・」と言っている間に少しずつ近づいていく遊びです。

これが熊本では「インド人のくろんぼ」なんです。これは結構ショックでした。熊本といっても熊本市中心部だけかも知れませんが…。子供心にインド人は黒くないけどなぁと思っていました。

他にもいろいろありますが、「ああ、熊本にもこういうシステムがあるんだ」と思ったのが、東京都国立市でいう「バリアー」熊本市でいう「ガッツ」です。今の子供達もやるのでしょうか?たぶんやらないだろうなぁ。これは団塊ジュニア世代特有のものなのかも知れません。

子供は汚いものを触ったとき、他の人になすり付けようとします。それを防止するためにこの「バリアー」があるわけです。使い方としては誰かが汚物を触ったとします。それを発見したら皆はすぐに「バリアー!!」と叫ぶのです。そうするとたとえ汚物をなすり付けられても、セーフであるという決まりなのです。

僕はこの「バリアー制度」があまり好きではありませんでした。どんくさいので「バリアー!!」と叫ぶタイミングが遅くて、よく汚物を体になすり付けられていたからです。

熊本にはないだろうと思っていました。しかしあったのです。「ガッツ」という呼び名で。さらに驚いたのが、「バリアー制度」のオプションまでそっくり熊本にも存在したのです。

それが「天の神様預け、永遠」です。知らない方にとってはなんのこっちゃわからないと思いますが、「バリアー」はある程度の時間がたつとその効力はなくなるというのが決まりでした。それでは都合が悪いので「バリアー、天の神様預け、永遠!!」とオプション付きで叫ぶことで、文字通り、永遠にバリアーの効力を神様に預けることでその効力が長くなるというわけです。

ある日、下校途中にH君が犬のフンを踏みました。それをいち早く発見した僕は「ガッツ、天の神様預け、永遠!!」と大声で叫びました。もうこれでひと安心です。ところがH君は犬のフンがついた靴を僕のランドセルになすり付けたのです。

えっえー!?「なにすんだよ!俺はガッツって言ったじゃないか!!」

するとH君は驚愕の一言「ガッツしてても、犬のフンはお前のランドセルについとるバイ」

すげえ、すげえよ熊本…。


■第6回 坊主頭

熊本の小学校に転校してきて、ずっと気になっていたことがありました。それは坊主頭の子がクラスにとても多いということでした。僕もあることがきっかけで坊主頭にしたことがあります。

当時、「竹とんぼ」は通学路の途中にあるマンションの1階にテナントとして入っていました。ですから下校時には必ず店に顔を出してから帰っていました。

その日は友人と一緒に下校していました。いつものように店に顔を出し、母に声をかけました。

「ママ、ただいま!!」

友人が一瞬固まったのがわかりました。
「おい、お前、かあちゃんのことママって呼びよっとや?」
「うん」
「はぁ〜?、お前、おぼっちゃんや?それとも外人や?明日みんなに言いふらしてやろう!」

ええっ!?東京ではみんなが普通に両親のことをパパ・ママと呼んでいました。僕からするととうちゃん・かあちゃんと呼ぶほうが、なにか時代遅れな感じがして、すごく違和感があります。

翌日、意地の悪い男の子が「Tはかあちゃんを、ママって呼ぶてばーい」と教室で叫んでいます。みんな僕を見てゲラゲラ笑っています。「Tはおぼっちゃんだから、頭はぼっちゃん刈りばい!」
どうもクラスのみんなはパパ・ママと呼ぶことイコールひ弱なおぼっちゃんという認識のようです。

僕は考えました。どうしたらこの現状を打破できるのか。そうだ!僕も男らしく坊主頭にしてみよう。そうしたらおぼっちゃんイメージがなくなるかもしれない。

それまで僕は床屋にいったことがありませんでした。ずっと母に髪を切ってもらっていたので、10歳にして床屋デビューです。

床屋は近所の田口理容店。椅子に座るとクロスをかけられ、糊のきいた白衣を着た主人がバリカンをあてます。バサバサと髪の毛が床に落ちていきます。そして僕の気持ちも落ち込んでいきました。

「かっこ悪い…」それ以外何の言葉もありません。家族にも爆笑されました。「お前は頭が張っていて、お産のときなかなか出てこなかった。」 ことあるごとに聞かされた母の言葉をその時はっきりと理解できました。こっそり合わせ鏡で後頭部も確認しました。見事な絶壁…。

翌日クラスでも大爆笑。「おぼっちゃん」の呼び名はなくなりましたが、かわりに「らっきょうの逆立ち頭」と命名されました。ちくしょう、上手いこと言うなあ!!

■第5回 運動会

秋は運動会のシーズンです。僕は運動があまり得意ではありません。徒競走はいつも4着で、あとちょっとのところでメダルを逃すオリンピックにおける日本人選手のごとく、そのくやしさを幼少の頃から身をもって味わっておりました。

しかし奇跡は起こったのです!男女混合障害物競走、男女がそれぞれグラウンドの両端からスタートし、いくつもの障害物を越えたあと中央で合流、番号札を引き、同じ番号同士でペアになり、女子が男子に目隠しをして、男子が女子をおぶってゴールするという人生の縮図のようなこのレースに最高のフィナーレが待っていたのです。

バーンというピストルの音でスタートしました。障害物は難なくクリアして、中央で番号札を引きます。番号は3番です。「3番おるや!!」大声で叫ぶと、痩せた女の子が3番の札を持ってモジモジしているのに気付きました。

終わったなと思いました。目隠しをされた男子はおぶった女子の右・左の指示を頼りにゴールしなくてはならないのです。しかしその女の子は気が小さくて、クラスでもあまりしゃべらない子でした。案の定、背中の彼女は右とも左とも言ってくれません。

半ば諦めたその時、ふと足元を見ると、なんと地面が見えるではありませんか!彼女は気が小さいゆえに目隠しをゆるく結んでいたのです。そうとわかった僕は彼女に「何も言うな!」と亭主関白のようなセリフをはき、ゴールに向かって一気に走りぬき見事1着になったのです。

ちょっとインチキですが、胸につけられた憧れの赤いリボンがとても嬉しかったのをおぼえています。「今まで生きてきて一番幸せ。」 のちにバルセロナ五輪で岩崎恭子も言っていました。



■第4回 夏休みの宿題

転校してきて最初の夏休み、僕は呆然としました。それは大量の宿題のせいでした。東京での夏休みに宿題はありませんでした。
あまりの量に先生がご親切に宿題一覧リストを別紙で作ってくれたほどです。

もちろん今までそんな量の宿題をしたことがないので、ペース配分なんて全くわかりません。ですから例年どおり大いに遊びました。
先生が異常にすすめる朝のラジオ体操もバカバカしくて一度も参加しませんでした。毎日気の向くまま、プール・ソーメン・スイカ・再放送のアニメの日々です。

8月も20日を過ぎると、僕は少し不安になってきました。そうです、宿題は全くの手付かずです。あわててはじめましたが全然終わりません。

漢字の書き取りは「偏」と「旁」を流れ作業で書くことでスピードアップが図れますが、算数のドリルがくせものです。両親がみかねて電卓を持ち出して手伝ってくれました。

ああっ!こんなところに「夏休みの友」が!!
くそー、誰がおまえを友と決めたぁー!!

結局、両親と電卓の応援むなしく二学期を迎えました。クラスではラジオ体操皆勤、宿題パーフェクトの人がほとんどでした。しかも言われもしないのに、絵日記と工作まで提出している人もいます。
いるよねぇ、こうゆう人!!


■第3回(8/15)

メロディオン。じつに嫌な楽器です。
僕は楽器がとても苦手で、とくに鍵盤ものはダメです。最初この楽器を見たときはびっくりしました。笛のように吹き、ピアノのように弾く・・・。はじめから僕には出来ないと確信しました。

僕の転校先の小学校では、一年生からメロディオンを習います。しかし僕は四年生からのスタートです。苦手なうえに3年間のハンディがあります。

だいたい、ド・レ・ミの「ド」と発声して、それが「ミ」の音程でも「ド」は「ド」じゃないか!僕は「ド」って言ってるよ。先生はそれは「ミ」だって言うけれど・・・。
つまり僕はド・レ・ミを音程では理解していなかったのです。

先生は僕が弾けるという前提で授業をすすめます。個別授業はありません。ああ、東京の小学校で3年間頑張ったハーモニカのほうがずっとましだ・・・。
しようがなく鍵盤にマジックでド・レ・ミと書き込み、楽譜にも女の子にド・レ・ミを書いてもらいインチキしてやり過ごしました。

ところが3月、ひな祭り音楽会なるものがあるというのです。クラスごとにステージにあがり、全校児童の前で演奏しなくてはならないのです。そのときはインチキ楽譜をみて演奏してはいけません。もう完全にお手上げです。

ええ、でももちろんインチキしましたよ。吹いてるふりして、息吸ってました。


■第2回(8/6)

僕が転校してきたクラスでは、その当時「香りつき消しゴム」なるものが流行していました。今でもあるのでしょうか?オレンジやレモンなどの香りがする消しゴムです。

ある日、クラスの男の子が「おい、オレンジ消しゴムを匂いながら水ば飲むと、オレンジジュースになるけん!」と言いだしたのです。

クラスは盛り上がりました。みんな我先に水道に走り、「本当だ!水がジュースになった!!」と大はしゃぎです。僕もワクワクしながらお気に入りのコーラ消しゴムを匂いながら水を飲んで見ました。

最初のひとくち・・・。
水の味です。スカッとさわやか水道水です。しかしここで「みんななに言ってんの?水の味しかしないよ」と標準語ですまして言えば、転校2週間で築き上げた友人関係が崩壊する気がしたのです。

「本当だ!コーラの味がする!!」思い切って叫びました。
するとある女の子が「嘘ば言いなすな!コーラは炭酸だけん、水がコーラの味するわけなか!」とするどいツッコミをいれてきたのです。

えっえー!そ、そんなぁ。
あげくの果てに、その子はホームルームの時間に「T君は今日、嘘をつきました。嘘は絶対にいけないと思います」と熊本独特のイントネーションで胸をはって発言したのです。

ち、ちくしょう、熊本恐るべし。九州女恐るべし。
その時、僕は二度と迎合しまいと心に誓ったのです。


■第1回(7/1)

僕の生まれは東京都国立市、10歳までそこで育ちました。
しかしある日、父が脱サラ、「竹とんぼ」の開店を決意し熊本への引越しが決まったのです。

「教科書が熊本弁で書いてあったらどうしよう?」はじめは不安でいっぱいでした。
しかし、転校初日から友だちをつくること。とにかくこれを目標に張りきって登校しました。

担任の先生はおばちゃん先生。話し言葉に熊本弁満載で緊張しました。
黒板の前でクラスメイトに紹介され、空いている席に案内されました。周りのみんなは僕のことをじろじろ見ています。

すると後ろの席の男の子2人が「おい!お前、たのきんトリオで誰が好きや?」と突然たずねてきたのです。
完全に予想外でした。面食らいました。ある程度のことは予想して登校していましたが、まさか「たのきんトリオ」で攻撃してくるとは思いませんでした。

「たのきんトリオ」確かにそれは知っています。当時人気絶頂のアイドルグループ。しかし東京、少なくとも国立市ではそれは女の子のものだったのです。男が興味を持つものではありません。

しかし、答えねばなりません。みたところによると、後ろの席の2人は同じ誰かが好きな様子です。
それを言い当てることができれば、友だちになれるのは間違いありません。

確率は3分の1です。よっちゃんはないだろう。マッチかトシちゃんだ。男っぽいといえばマッチ。
「俺、マッチが好き」おもいきって答えました。

「な〜んや、お前マッチ派や、俺たちトシちゃん派!」
やってしまいました。ちくしょう!本当はどっちも好きじゃないのに!!
「なら、帰りに俺ん家にこいよ。マッチのポスターばやるけん。」

転校初日、僕は友だちと上半身裸のマッチのポスターを手に入れたのです。