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石井桃子さんを悼む (5/20)


 残された大きな遺産

 東京在住で、編集者として駆け出しの二男からの電話で石井桃子先生の訃報を聞いた。混乱を招くから、しばらくは、内密にして欲しいとのことだったが、翌日には、一部の新聞で発表された。

 子どもの本屋を始めてまもなくの頃、臆面もなく石井先生にお手紙を差し上げた。子どものころから人見知りする方で、有名だからというだけで人に会いたいと思うことはなかったけれど、子どもの本屋を始めたからには、ぜひ一度お目にかからねば、という気持ちが私を突き動かした。

 戦後、岩波書店で、翻訳のみならず、子どもの本の企画編集を始められたのが、ちょうど私の子どものころで、たまに町に出かける父のお土産が、それらの「岩波子どもの本」や「少年文庫」だった。そんなに数は多くなかったものの、ずいぶん楽しませていただいた。

 連載「本はともだち」で取り上げた五十点近くの作品のうち、はからずも、十五点が先生の翻訳されたものだった。

 それらの作品を、当時はもちろん、面白いというだけでむさぼり読んでいたのだけれども、子どもの本屋を始めて、その時の作品が今の仕事の原動力になっていることを改めて知ったからである。

 「石井桃子なくして、子どもの本はない」。そう思っている人は、私だけではないことは百も承知の上で、そのことを、自らの口で伝えたかったのと、当時、優れた子どもの本が、品切れあるいは、絶版状態になっていることに対する不満をぶつけるべく(今にして思えばこのことは、見当違いのことだったのだが)出かけたのだった。

 お約束いただいた時間に少し遅れて到着した私をご自宅の前の道路まで出てお待ちいただいた。その時、何をお話したか残念ながらあまり覚えていない。
 
 そのことが機縁で、熊本市水前寺の小さな本屋を訪ねて下さったのは、ちょうど先生が、八十歳の時だった。心配した出版社の人の付き添いを振り切っての一人旅だった。無謀にも東京から到着されたその日に、車で二時間かかる、水上村の私の実家にお連れした。

 東京から、いきなり、九州山脈のふもとの山の中の一軒家。先生にとっては、異次元の世界にタイムワープしたようなお気持だったにちがいない。

 とにかく好奇心旺盛な方で、谷川の木に攀じ登って咲くテイカカズラやマタタビに興味を示され、質問にたじたじになったことを思い出す。当時、トルストイの翻訳に没頭していた父、北御門二郎との出会いもこの時であった。その後東京での父を囲む会にも出席いただいたようだ。

 翌日心配して神戸から追っかけてこられた、まさきるりこさん(マリー・ホール・エッツの「もりのなか」などの翻訳で知られる)や町立図書館長のK氏とは、その後いろいろとご縁があって、私の上京に合わせて杉並のとても静かなレストランでの食事にお二人も駆けつけてくださった。一日一組しかお客を入れないというそのレストランは、普通の住宅を改造したもので、こぢんまりとしていて、両親と娘さんの3人で経営をなさっているとうかがった。フルコースの料理は、量も適度で、大変美味しかった。

 まだあつあつの焼きたてのパンの味もさることながら、食前酒のワインがあまりにも美味しいのでそのことを申し上げたら、「そんなにおいしかったら私のもどうぞ」と先生は自分のワインを私の前に差し出された。そのワインを遠慮なく頂戴したというので、その後、同席したk氏に何度もその失礼を指摘され、その食事のことは、未だに記憶に新しい。

 当時店の経営はとても厳しい頃で、それを察して「お金をお貸ししましょうか?」という手紙をいただいたり、(借りたら返せなくなりそうで涙を飲んで御辞退申し上げたが)子どもたちの大好きな「せきたんやのくまさん」のぬいぐるみを送ってくださったり、ありがたいと思ったことは数え上げればきりがない。けれども、私たちにとって、生きる術であり糧である、自信を持って売る本を作ってくださったことが、何よりもありがたい。

 二男が「目指す光が消えた」と嘆くので、「そんなに欲張るものではない。光は残された作品にいっぱいあるじゃないの」と言ってやった。

 優れた児童文学という大きな遺産を残された私たちは、その遺産を思い切り使って、心豊かに過ごせる幸せに感謝しながら、使えば使うほど大きくなるその遺産を、後世に伝えることがせめてものご恩返しだと今は思っている。

2008年4月15日 西日本新聞熊本県版より 小宮楠緒